厳邨神社(岩村神社)
岐阜県恵那市岩村町、岩村城下町に鎮座する「厳邨神社(岩村神社)」。
承久3年(1221年)後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵し敗れた承久の乱で、「合戦張本公卿」と名指しされた5人の公卿の一人、一条信能卿がこの地で処刑されました。
一条信能卿を弔うために建てられた「若宮社」が、明治14年3月の社号改称の沙汰により「厳邨神社(岩村神社)」に改名。
昭和32年12月19日、岐阜県指定史跡となりました。
御祭神
一条宰相中将藤原信能卿(いちじょうさいしょうちゅうじょうふじわらのぶよしきょう)
社号碑 鳥居
厳邨神社(岩村神社)の正面です。
鳥居とその右手に社号碑、奥に拝殿が見えます。
境内に入って左手、桜の木の片隅にも小さなお社がありました。
まずは正面の拝殿に向かいます。
拝殿
狛犬
本殿
石造りのお社です。
分かりにくいのですが、写真下の中央の黒っぽいものがお賽銭入れです。
心を込めてお参りさせて頂きました。
木造のお社
境内左手の桜の木とお社。
こちらのお社も一条信能卿をお祀りしたものでしょうか…
こちらのお社もお参りさせて頂きましたが、詳細はわかりません。
史跡 一条信能終焉の地
岐阜県指定史跡
一条宰相中将信能終焉の地
承久三年(一二二一)後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵をあげたが、幕府によって鎮圧された事件を「承久の乱」という。承久の乱の頭目とみられたのが承久殉難五忠臣といわれる五人の公卿で、一条信能はその一人である。彼は官軍の一将として宇治川の芋洗で幕府軍と戦ったが敗れ捕らえられた。信能は幕府軍として出陣した岩村城主遠山景朝に伴われて鎌倉へ護送される途中、幕命により、同年八月十四日、ここ遠山荘岩村の相原で処刑された。享年三十二歳であった。承久記では処刑を悼み、その模様を美文で綴っている。処刑の日を吾妻鏡では七月五日としているが、公卿補任では八月一四日とされ、他の四忠臣との関連から後者の説が正しい。村人はこれを哀れみ、処刑地に小祠を建てて霊を弔い、若宮社と称してささやかな供養を続けてきた。
其の後、六百数十年を経て明治の王政復古となり、明治十三年(一八八〇)六月、明治天皇が中山道御巡幸の折、承久の乱にあたって殉じた一条信能の英魂を御追認され、特旨をもって岩村へ勅使を派遣、祭粢料を賜った。
同十四年三月に社号改称の沙汰があって岩村神社と称することになった。昭和三年(一九二八)十一月、正三位贈位の恩命があった。
現在は岩村夏祭りとして毎年八月に全町を上げて祭礼を行っている。
昭和三十二年十二月十九日、岐阜県指定史跡となった。
本殿の左手に「史蹟 一条宰相信能終焉地」の石碑があります。
場所
〒509-7403
岐阜県恵那市岩村町字若宮750番地
厳邨神社(岩村神社)